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2026年3月29日 説教要旨

  • 3月29日
  • 読了時間: 2分

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という最後の叫びをどのように受け取ればいいのでしょうか。この言葉をイエスさまは「大声で叫ばれた」と書かれていますが、原文を見ると、「この上もなく大きな声で絶叫された」と言うべき強調された表現になっています。弟子たちから捨てられ、周りの人々から捨てられ、父なる神さまからも本当に捨てられたのでしょうか。イザヤ書53章を想わされます。「…彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。…」(イザヤ書53:1~8)ここに十字架の神秘があります。にわかに信じられないことが起こります。神さまがご自身を犠牲にするという神の愛の真実…

主イエスが私たちの代わりに神から見捨てられ、神の裁きを受けてくださいました。その証拠に、主イエスが十字架上で息を引き取られた瞬間、父なる神さまが行動を起こされます。神殿の至聖所を隔てる幕が裂けたのです。それは、誰でも神様にお会いすることができるようになったということを意味しています。主イエスの十字架上の死によって、その主イエスの十字架を受け入れることで、誰でも神さまと会うことができるようになったのです。混沌の暗闇から神が創造のわざをされたように、「全地が暗くなった」極みから新しい光が、全く新しい福音の時代が始ったのです。

受難週の間、再び十字架の主イエスを見上げましょう。「本当にこの人は神の子」という信仰告白をしたあのローマの百人隊長のように。

 
 
 

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