2026年1月18日 説教要旨
- aomori1879
- 1月18日
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主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の形だけの宗教を叱責されています。神を愛すること、人を愛することを棚に上げ、恰好だけ宗教的な衣服をまとい、細かい規定を守り、十分の一をきちっとおさめている。神の言葉を毎日唱え、神殿で祈っている。――それは形だけの宗教です。神を愛する心と隣人を愛する心を失ってしまうなら、どんな行いも偽善にうつるものです。使徒パウロも「たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」と語っているようにです。神に関する知識をかさにして物事がよく見えるというところに逆に彼らの「罪」があるのです(ヨハネ9:41) 今朝の本文では、ものの見えない案内人として批判されています。
私たちの教会にも同じことが言えるのではないでしょうか。牧師は絶対的権威者としての先生ではないのです。先生と呼ぶのは日本社会のならわしかも知れません。また主イエスの時代のユダヤ人社会でのラビの権威があまりにも強いことが背景にあるのでしょう。私たちは聖書の解釈を究極的に目指すのではなく、主イエス・キリストを目指すのです。不思議な存在です。とても目標にできない存在に思えるかも知れません。しかし諦めるのはなく、どんな状況に置かれても、最後まで主が示す「神に渇く者」となって行きたいものです。思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ…


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