2026年2月22日 説教要旨
- 2月22日
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今朝の箇所はマタイ24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。
世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話として受けとめたい。自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って、頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われるのです。なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていったことを思わされます。イエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言えます。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取ることができるのではないでしょうか。


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