2026年1月25日 説教要旨
終末の徴については、4節から14節までで7つのことが挙げられています。①偽物のメシアが現れること、②戦争が起きること、③飢饉が起きること、④地震が起きること、⑤迫害を受けること、⑥教会内部で分裂が起きること、そして⑦福音が宣べ伝えられることです。最後に神の恵みを示すものについて触れられているのが「福音宣教」です。「耐え忍ぶ」とだけ言うと、文字通りには「じっとする」ということかもしれませんが、終末の時代に生きる、実際上の私たちの動きとしては、もっと能動的なのです。今日の御言葉には、私たちの心を騒がせるような困難についても触れられてきましたが、実のところ終わりの時とは、恐怖のうちに来るのではありません。むしろ、福音宣教によって神の恵みと愛を拡大する、そのような喜びと希望の内に来るのです。 「耐え忍ぶ」という言葉は、ギリシャ語の文字通りには「下に、とどまる」という表現です。つまり、神さまが、ご自身の愛の下に私たちを集めようとされた、その下に留まるということです。神様の愛のもとにとどまる。主イエスの愛のもとに堅く立つ。外側からも内側からも困難に見舞われる
2026年1月18日 説教要旨
主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の形だけの宗教を叱責されています。神を愛すること、人を愛することを棚に上げ、恰好だけ宗教的な衣服をまとい、細かい規定を守り、十分の一をきちっとおさめている。神の言葉を毎日唱え、神殿で祈っている。――それは形だけの宗教です。神を愛する心と隣人を愛する心を失ってしまうなら、どんな行いも偽善にうつるものです。使徒パウロも「たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」と語っているようにです。神に関する知識をかさにして物事がよく見えるというところに逆に彼らの「罪」があるのです(ヨハネ9:41) 今朝の本文では、ものの見えない案内人として批判されています。 私たちの教会にも同じことが言えるのではないでしょうか。牧師は絶対的権威者としての先生ではないのです。先生と呼ぶのは日本社会のならわしかも知れません。また主イエスの時代のユダヤ人社会でのラビの権威があまりにも強いことが背景にあるのでしょう。私たちは聖書の解釈を究極的
2026年1月11日 説教要旨
復活を信じないサドカイ人にとっては、アブラハムもイサクもヤコブも「死んだ者」であり過去の人物です。人間はいつかは死にますが、それで終わりではない。神さまは永遠に共におられる方です。主イエスが「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と宣言されたように、「神は今でも、彼らの神なのだ」と。「たとえ彼らが墓の中で眠っているとしても、神が彼らを見捨てない限り、彼らは“死んだ者”ではないのだ。神は、彼らを死んだままでは捨ておかないと、彼らを必ず復活させると、心に決めておられるからだ」と、主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。私たちにも恵みの復活が約束されています。死後の世界はどうなるのか、どのような姿で復活するのかなど、人間の理解を超えているでしょう。あれこれ詮索しても始まりませんが、主はただ一言「天使のような」存在であると語られました。何と慰めと恵みに満ちた言葉でしょうか。この地上では神への愛、隣人愛に集約されるような十戒の神の教えに従って生きようとすればそれで十分なのです。
2026年1月4日 説教要旨
もう一つのクリスマスの物語としてシメオンと女預言者アンナの話しを覚えておきましょう。律法に定められた清めの期間が過ぎたとき、イエスの両親は幼子イエスを主に献げるため、エルサレム神殿に連れて行きました。そこに正しい人で信仰のあついシメオンという人物がいました。彼は 聖霊のお告げで「神のもとから遣わされてくるメシア、救い主、そのお方を見るまでは、死を見ることもない」と言われていました。そのシメオンが幼子イエスを両腕でしっかりと抱きしめることができたのです。救いを見たと感激しました。彼は、祭司でも何でもありません、牧師でも何でもありません。一般信徒です。そのシメオンが、まるで、牧師のように、大祭司かなにかのように、その子を自分の腕に抱いて賛美し祝福しました。 私たちも、礼拝のたびごとに、「今日、ここで神さまの救いを確認したから、もう安心です。仮に来週の日曜日は、この世にいないとしても、わたしは安心して今日この礼拝堂をあとにいたします」と賛美している。救いを両腕にしっかりと抱きながら、安心して死ぬことができる…という思いを持って「来週また会いましょう」と
2025年12月28日 説教要旨
占星術の学者たちは星に導かれて幼子イエスに出会いました。また、羊飼いたちは夜通し羊の群れの番をしているときに天使たちが現れ、救い主の誕生の知らせを聞ききました。主イエスの誕生は、暗闇の中に輝く光であったのです。聖書の預言が成就したのです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた…ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」(イザヤ書9:1,5) 学者たちは「ひれ伏して幼子を拝み」ました。自分自身を捧げ、心からの礼拝をささげたのです。この世の王であるヘロデ王にひれ伏し彼を拝んだとは記されていません。御言葉を通して示されている真理は、この世の力に追随することなく、まことの神さまを礼拝することで自分たちの生き方の姿勢を貫くことでした。人は、どこで変えられるのでしょうか。まことの愛に出会った時、その愛によって変えられるのではないでしょうか。東方の学者たちは、人の救いのために来てくださった幼子の内に、人間が永遠の生命を得るために、自らは死ぬという神の愛の直観によって幼子をひれ伏して拝したのです。彼らの学者としての才覚で変え
2025年12月21日 説教要旨
クリスマスをただのイベントで終わらせないようにしましょう。 イエス・キリストが誕生した夜、その知らせを最初に受けたのは羊飼いたちでした。なぜでしょうか?彼らは当時の社会でもっとも地位の低い者とされ、人々から見下げられるような職業でした。彼らの仕事上、律法を守ることができませんでした。当時の社会の中で「罪人」扱いされていた貧しい民でした。けれども神さまは、天使をとおし、そんな彼らにまず最初の救い主イエス誕生のニュースを伝えたのです。何かうれしいことや素晴らしいことがあった時、私たちは早く大切な相手に伝えたいと考えるでしょう。神さまは、私たちの生きる世界で、もっとも弱い者、小さく見える者を、特別に大切にしてくださる方なのです。ですからクリスマスはこの世で悲しんでいる人々を思いやる時なのです。 讃美歌「きよしこの夜」の原語である英語では、「サイレント・ナイト、ホーリーナイト…」と始まります。クリスマスを迎えるすべての人々は、まず静かになるということが何よりも先立ちます。静かになり、自分自身を見直すのです。自分がいかに自分の外側の様々な事柄に依存してきた
2025年12月14日 説教要旨
『サラダ記念日』という歌集で有名な俵万智さんの歌です。「寒いねと 話しかければ 寒いねと 答える人の いるあたたかさ」一人では、「寒いなあ」という独り言しか言えない。どんなに寒くても、どんなに苦しくても、「寒いなあ、苦しいなあ」と抱え込むしかない。でも、「寒いね」と話しかけられる友が傍にいれば、それだけでどれだけ温かいか。どれだけ救われるか。 讃美歌の「いつくしみ深き」は「いつくしみ深き友なるイエスは」と始まります。神である方を、「友」と呼んでしまう大胆な歌詞に感銘を覚えるでしょう。主イエスご自身が弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)とおっしゃったからです。クリスマスは永遠の友である「インマヌエル」が、寒い時も、つらい時も、いつも傍にいてくださることを喜び確信する季節です。もし神さまと一緒に生きているなら、「寒いね」は「神さま、寒いです」という表現に変わります。神さまと一緒に生きる人には分かるんです。 神さまと語り合いながら歩んでいく人生があるんです。これからも「神さま」と呼びかけてください。神さまに祈ってみてください。
2025年12月7日 説教要旨
「人類、みな兄弟」とか、「だれでもみな神の子ども」といった標語を聞くことがありますが、ここで言われている「神の子ども」とはそういうことではありません。聖書は、私たちはだれも生まれながら神の子どもである人はいないと教えています。もともとは神のかたち、神の子どもとして造られましたが、最初の人アダムが罪を犯したことで、人はみな神の子どもとしての資格を失ってしまいました。聖書は、私たち人間は新しく生まれ変わらなければ神の子どもとしての資格が与えられないと教えています。しかもその資格はただの資格ではありません。「権能」「特権」「能力」という表現です。これはものすごい特権なのです。 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1:12)この「しかし」は、福音の転換点です。神の民が受け入れなかったにもかかわらず、「その名を信じる人々」には神の子となる資格が与えられる。これは、イスラエルに与えられた祝福を超える、より大きな恵みの提示です。「すべての人」とは、血筋や民族に関係なく、イエスを信じるすべての者を指していると解
2025年11月30日 説教要旨
主なる神が私たちの歴史の中に介入されて、御子が地上の私たちのところまで来てくださり、お生まれになったクリスマスの出来事を喜び祝う時を過ごしています。そして、やがて来る終わりの日に、キリストが再び地上に来られることを待ち望んでいます。 主なる神は、終わりの日が来ることを、目を覚まして待ち望むようにと私たちに呼びかけています。「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。」と主なる神は呼びかけられているのです。主なる神が、私たちに全人格を注いで聞きなさい、と言われる教えとは何でしょうか。それは、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という教えです。主なる神は、ただ一人のお方であり、私たちが全人格を尽くして、主なる神を愛しなさいと言われているのです。 かつて、バビロン捕囚から戻ってきたイスラエルの民は、主の御心により、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤという指導者の元で、崩壊した神殿と城壁を再建しました。様々な外部からの妨害があったに
2025年11月23日 説教要旨
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)。 「耕す」という言葉は、もともと「奉仕する」という言葉から来ています。エデンの園では、何もしなくても、食べることに不自由しなかったかもしれませんが、神は人に奉仕させることで、より幸せな毎日を送ることができるようにされたのです。考えてみますと、人間以外の動物が土を耕し、種を蒔き、育て、刈り入れることはありません。人間だけが種から育て、その実りの収穫を喜んだり、花の美しさを楽しんだりすることができるのです。エデンの園は喜びの園という意味です。 注目しなければならないのは、3章以下、人は罪の結果、土が呪われてしまったわけですが、それでもなお、土に種を蒔けば、芽を出し、成長し、豊かな実を実らせるという事実です。土を耕すというのは、生きるということの象徴でもあります。人生には苦しいこともたくさんあることでしょう。しかし、その中で、神の命に触れる瞬間や感動もあるはずなのです。
そのとき、土くれに過ぎないこの私を、命がけで愛して下さっている主なる神がおられ

