2025年11月23日 説教要旨
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)。 「耕す」という言葉は、もともと「奉仕する」という言葉から来ています。エデンの園では、何もしなくても、食べることに不自由しなかったかもしれませんが、神は人に奉仕させることで、より幸せな毎日を送ることができるようにされたのです。考えてみますと、人間以外の動物が土を耕し、種を蒔き、育て、刈り入れることはありません。人間だけが種から育て、その実りの収穫を喜んだり、花の美しさを楽しんだりすることができるのです。エデンの園は喜びの園という意味です。 注目しなければならないのは、3章以下、人は罪の結果、土が呪われてしまったわけですが、それでもなお、土に種を蒔けば、芽を出し、成長し、豊かな実を実らせるという事実です。土を耕すというのは、生きるということの象徴でもあります。人生には苦しいこともたくさんあることでしょう。しかし、その中で、神の命に触れる瞬間や感動もあるはずなのです。
そのとき、土くれに過ぎないこの私を、命がけで愛して下さっている主なる神がおられ
2025年11月16日 説教要旨
18章は罪がテーマになっています。当時誰かが自分に対して罪を犯した時に、「3回までは赦してやりなさい」と教えていたそうです。3という数字は一つの完全な数字です。1回は誰でも赦さなければならない。2回も赦せば、偉い人だ。それを超えて3回も赦せば、もう十分だ、完璧だ。その人はやるだけのことはやったということになります。日本語にも「仏の顔も三度まで」ということわざがあります。それに対して主イエスはびっくりするような答えをされました。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」計算すると490回となります。しかし主イエスがここで言おうとされたことは、我慢の回数の問題ではありません。続けて、仲間を赦さない家来のたとえ話をします。 この話は、イエス様が語られたたとえ話の中では、分かりやすいものの一つではないでしょうか。展開はよくわかる。しかし分かりやすいだけに、かえって「ああ、分かった。なるほどね」で終わってはいけないのです。家来のしていることはいかにも不自然なことです。これだけの借金を赦してもらいながら、彼自身は赦してやることができない
2025年11月9日 説教要旨
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」これは明らかに「祈り」について言及している言葉です。教会における祈りの交わりの中に、主がいてくださるということです。二人、三人が集まって、心を一つにして祈りをささげるのです。心を一つにして祈る時、共におられる主の恵みを覚えることができるというのです。では、私どもが何にもまして、心を一つにして祈らなければいけないこととは何なのでしょうか。「心を一つにして」というのは、英語の「シンフォニー」という言葉の語源になった言葉です。地上において、同じ響きを立てながら共に祈るのです。オーケストラのように様々な楽器の音色が奏でられながら、一つの美しい音楽を奏でるように、教会もまた色んな人、色んな賜物を与えられた者たちが集まっています。祈るべき課題も多くあります。しかし、そこで同じ響きを立てながら、天の父なる神さまに向かって祈るのです。そこで私どもは何を祈るのでしょうか。真っ先に祈るべきこととは何なのでしょうか。そして、
2025年11月2日 説教要旨
1994年 岩波新書最大のベストセラーに『大往生』があります。著者は永六輔さん(えい ろくすけ)さん。ラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家、作詞家など多方面で活躍されました。「世の中が平和でも,戦争がなくても人は死にます、必ず死にます。その時に生まれてきてよかった、生きてきてよかった、と思いながら死ぬことができるでしょうか。そう思って死ぬことを 大往生…」と永さんは語っています。 今、記念礼拝で兄弟姉妹たちの名前を読み上げました。この方がたは皆大往生された方々です。年齢やどのような召されかたをしたかは関係ありません。私たちはおぼろげながら、その方々を知っているにすぎないかも知れません。しかし、私たちの人生のすべてを完全に覚えておられる方がおられます。聖書に記されている神さまです。
「主よ あなたは私を究めわたしを知っておられる」(1節)「座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられます」(3節) 神さまは私たちのすべてをご存知です。私たちは、神さまに知られているのです。すべてにおいて守られているのです。「闇の中でも」病や苦悩の
2025年10月26日 説教要旨
「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」という質問を切り出した弟子たちは、天の国にあっても、自分たちの位を気にしていたのでしょうか。主イエスは弟子たちの質問に端を発し、「小さい者たち」の価値に心の目を開かせようとしています。それが5節以降の講話の内容です。「小さい者たち」と三回言及されています(6,10,14節)。先ず「小さい者たち」とは誰なのでしょうか。文字通り、主イエスさまのもとに来る「小さい子どもたち」と考えてもいいのですが、それがすべてではありません。当時の教師は弟子たちのことを「子どもたち」と呼んでいました。 ここでは、自分を信じて従おうとしていた弟子たちのことも意識していたようです。私たちも主イエスに従おうとしているのなら、私たちもまた小さい者たちです。年齢や男性、女性に関わりありません。この世的な職業、能力、出自、民族、人種など一切関わりがありません。神にしか頼るべくものがない者、主イエスに信頼し従う者すべてが「小さな者たち」なのです。 この小さい者たちにつまずきを与えないということ(6,7節)。「つまずき」はもともと「わな」と
2025年10月5日 説教要旨
すべてのクリスチャンには「天の国のカギ」が授けられています。栄光に満ちたクリスチャンの特権です。しかし、人間的な思いに駆られて傲慢になってはいけない。いつでもこのような誘惑と罪が待ち構えています。私たちは常に神さまより前に行こうとする!高慢さ。「神の名」を利用して自分の正義...
2025年9月28日 説教要旨
学校という「神なんて信じない」と考える人がほとんどの場所で、聖書の言葉を語る難しさを感じる。しかし、神の存在を疑うという問いは現代人特有のものではなく、古代の聖書の民も持っていたもの。神の存在を疑うことは、神を疲れさせる行為であると。人格を持つ存在としての神が、疑われること...
2025年9月21日 説教要旨
弟子のペテロは、主イエスを生ける神の子、救い主と信じる信仰を告白しました。そして主イエスはご自分の教会をその信仰告白の上に建てると宣言されました。幸いな人と言われるペテロは、そのみ業に加えられ、そのために用いられる幸いであり、イエス・キリストの教会の一員となるという幸いなの...
2025年9月14日 説教要旨
「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」という異邦人の女性の執拗な返答に、主は感動します。主イエスをして「 婦人よ、あなたの信仰は立派だ 」と言わせたのです。「立派です」とは「 偉大です 」という意味です。その信仰によって彼女の娘はいやされたのです。娘の...
2025年8月31日 説教要旨
バプテスマのヨハネが処刑されたという報告を聞き、イエス・ キリストは父なる神に祈るために、静かな場所へ弟子たちと舟で向かいました。しかしその場所にも群衆が集まってきたので、イエス様は祈りの時を後にして病人を癒し、集まった群衆すべてに食事を提供されました。五千人の給食のエピソ...

