2026年3月8日 説教要旨
主イエスが十字架に架けられる直前の出来事です。ある女性が「食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけたのでした。主イエスの生涯の終幕は憎悪、裏切り、陰謀、悲劇の連続であっただけに、この話は暗さを増す闇の中で一筋の光のように輝く美しいエピソードです。自分の持ち物を全部売りはらってナルドの香油を求め、主イエスの頭に注いだのです。ナルドの香油は大変高価なもので、弟子達の言葉によればそれは300デナリにも売れたといいます。300デナリとは普通の労働者の1年分の給料にあたります。彼女はしかも、立派な入れ物であった石膏の壺まで割って、中の香油を、全部注いだのでした。 教会はこの「ナルドの香油」の香りがする所です。主イエスはこの人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれたと言いましたが、同時にわたしに良いことをしてくれたと言いました。良いこととは「美しい」こととも訳せます。わたしたちの人生において最も「良い」こと「美しいこと」とはどういうことでしょうか?聖書は、主イエスの頭に香油を注ぐその愛の行為であると語るのです。ある女性が香油を注いだ
2026年3月1日 説教要旨 小友睦牧師
悪霊を追い出す。悪霊の働きを抑える働きは何なのか、そういう問いが出て来るのではないでしょうか。ここでははっきり書いていませんが、私は愛だと考えます。十字架の直前、イエスは一人の良心的な律法学者との対話をします。彼は最も重要な律法について「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを挙げました。イエスはこの良心的な律法学者に対して「あなたは神の国から遠くない」と称賛しました(マルコ13:28-34)。悪意のある律法学者とは対照的な関係なのです。イエスは「悪霊を縛り上げる」唯一の方ですが、力でねじ伏せるのではなく、悪霊には「愛というバリア」で悪霊が入り込まないようにする方なのです。イエスの癒しはどのように行われ、意味があるのかは福音書から学んで行けるのです。 マルコ福音書は、イエスが聖霊をもって悪霊を追い出し、愛でもって人々を守る福音宣教の物語です。その場は家です。家とは「家の教会」が背景にあります。イエスは家庭という場を狭い意味での家とはしていません。イエスを信じて、癒されたいと望みを持って集まる処、そこは神の家族です。様々な人が来るでしょう。初めて
2026年2月22日 説教要旨
今朝の箇所はマタイ24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。 世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話として受けとめたい。自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って、頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われるのです。なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた
2025年2月22日 説教要旨 廣瀬祥史伝道師
私たちは日々の歩みの中、決していつも順風満帆ではなく、さまざまな困難に会い、課題に向き合わなくてはなりません。まるでイスラエルの民がエジプトを脱出して、広く恐ろしい荒れ野の中を通ったように、私たちも、人生の荒れ野の中を歩んでいます。イスラエルの民は、主なる神が与えてくださると言われた約束の地を目の前にして、不平を言い、不安と恐れに駆られました。その土地を偵察して帰ってきた人たちが、その土地の豊かな果実を持ってきて、主が与えてくださる土地は良い土地である、と報告したにも関わらず、イスラエルの民は、その土地に上っていこうとはしなかったのです。彼らは、神が私たちを憎み、アモリ人の手に渡して、私たちを滅ぼそうとしているのだ、とまで言うようになったのです。 私たちも、突然襲いくる病気や、災害、年老いて生活をすることの不安、家族や職場における人間関係の問題、近隣諸国との不安定な関係、経済問題などを目の前にして、いったい、主なる神は、私たちを愛することをやめて、憎んでいらっしゃるのではないだろうか。私たちは、このまま苦しみと嘆きの中にいて滅ぼされてしまうのでは
2026年2月8日 説教要旨
天の国は、この世の終わり(終末)を指し示しています。この世界の終わりに起こることは、主イエス・キリストが花婿のように十字架と復活の後、もう一度この世に来られ(再臨)、栄光の王として君臨し、喜ばしい婚宴の席というイメージで語られます。この世の終わりとは「新しい世」の始まりでもあるのです。花婿(イエス・キリスト)を迎える十人のおとめ(教会)は、天の国の完成を心待ちにして、いつかいつかと待っています。花婿の到着は昼か夜か何時なのか分かりません。夜ならば油壺とともし火が必要になります。花婿を迎えることは簡単ではありません。備えをしながら待つことです。ではその日、その時を知らない私たちが再臨の主イエスを待つためにはどうしたら良いのでしょうか。何とたとえ話の中では6節「真夜中」に花婿が到着します。 目を覚ましているということは、眠らないということではありません。いつでも、どこでも再臨の主イエスとお会いになる備えをしておくということでしょう。キリストを迎えるための油を準備することとは、具体的には、再臨の主イエスが、特に真夜中のような暗闇の中に来られるということ
2026年1月25日 説教要旨
終末の徴については、4節から14節までで7つのことが挙げられています。①偽物のメシアが現れること、②戦争が起きること、③飢饉が起きること、④地震が起きること、⑤迫害を受けること、⑥教会内部で分裂が起きること、そして⑦福音が宣べ伝えられることです。最後に神の恵みを示すものについて触れられているのが「福音宣教」です。「耐え忍ぶ」とだけ言うと、文字通りには「じっとする」ということかもしれませんが、終末の時代に生きる、実際上の私たちの動きとしては、もっと能動的なのです。今日の御言葉には、私たちの心を騒がせるような困難についても触れられてきましたが、実のところ終わりの時とは、恐怖のうちに来るのではありません。むしろ、福音宣教によって神の恵みと愛を拡大する、そのような喜びと希望の内に来るのです。 「耐え忍ぶ」という言葉は、ギリシャ語の文字通りには「下に、とどまる」という表現です。つまり、神さまが、ご自身の愛の下に私たちを集めようとされた、その下に留まるということです。神様の愛のもとにとどまる。主イエスの愛のもとに堅く立つ。外側からも内側からも困難に見舞われる
2026年1月18日 説教要旨
主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の形だけの宗教を叱責されています。神を愛すること、人を愛することを棚に上げ、恰好だけ宗教的な衣服をまとい、細かい規定を守り、十分の一をきちっとおさめている。神の言葉を毎日唱え、神殿で祈っている。――それは形だけの宗教です。神を愛する心と隣人を愛する心を失ってしまうなら、どんな行いも偽善にうつるものです。使徒パウロも「たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」と語っているようにです。神に関する知識をかさにして物事がよく見えるというところに逆に彼らの「罪」があるのです(ヨハネ9:41) 今朝の本文では、ものの見えない案内人として批判されています。 私たちの教会にも同じことが言えるのではないでしょうか。牧師は絶対的権威者としての先生ではないのです。先生と呼ぶのは日本社会のならわしかも知れません。また主イエスの時代のユダヤ人社会でのラビの権威があまりにも強いことが背景にあるのでしょう。私たちは聖書の解釈を究極的
2026年1月11日 説教要旨
復活を信じないサドカイ人にとっては、アブラハムもイサクもヤコブも「死んだ者」であり過去の人物です。人間はいつかは死にますが、それで終わりではない。神さまは永遠に共におられる方です。主イエスが「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と宣言されたように、「神は今でも、彼らの神なのだ」と。「たとえ彼らが墓の中で眠っているとしても、神が彼らを見捨てない限り、彼らは“死んだ者”ではないのだ。神は、彼らを死んだままでは捨ておかないと、彼らを必ず復活させると、心に決めておられるからだ」と、主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。私たちにも恵みの復活が約束されています。死後の世界はどうなるのか、どのような姿で復活するのかなど、人間の理解を超えているでしょう。あれこれ詮索しても始まりませんが、主はただ一言「天使のような」存在であると語られました。何と慰めと恵みに満ちた言葉でしょうか。この地上では神への愛、隣人愛に集約されるような十戒の神の教えに従って生きようとすればそれで十分なのです。
2026年1月4日 説教要旨
もう一つのクリスマスの物語としてシメオンと女預言者アンナの話しを覚えておきましょう。律法に定められた清めの期間が過ぎたとき、イエスの両親は幼子イエスを主に献げるため、エルサレム神殿に連れて行きました。そこに正しい人で信仰のあついシメオンという人物がいました。彼は 聖霊のお告げで「神のもとから遣わされてくるメシア、救い主、そのお方を見るまでは、死を見ることもない」と言われていました。そのシメオンが幼子イエスを両腕でしっかりと抱きしめることができたのです。救いを見たと感激しました。彼は、祭司でも何でもありません、牧師でも何でもありません。一般信徒です。そのシメオンが、まるで、牧師のように、大祭司かなにかのように、その子を自分の腕に抱いて賛美し祝福しました。 私たちも、礼拝のたびごとに、「今日、ここで神さまの救いを確認したから、もう安心です。仮に来週の日曜日は、この世にいないとしても、わたしは安心して今日この礼拝堂をあとにいたします」と賛美している。救いを両腕にしっかりと抱きながら、安心して死ぬことができる…という思いを持って「来週また会いましょう」と
2025年12月28日 説教要旨
占星術の学者たちは星に導かれて幼子イエスに出会いました。また、羊飼いたちは夜通し羊の群れの番をしているときに天使たちが現れ、救い主の誕生の知らせを聞ききました。主イエスの誕生は、暗闇の中に輝く光であったのです。聖書の預言が成就したのです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた…ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」(イザヤ書9:1,5) 学者たちは「ひれ伏して幼子を拝み」ました。自分自身を捧げ、心からの礼拝をささげたのです。この世の王であるヘロデ王にひれ伏し彼を拝んだとは記されていません。御言葉を通して示されている真理は、この世の力に追随することなく、まことの神さまを礼拝することで自分たちの生き方の姿勢を貫くことでした。人は、どこで変えられるのでしょうか。まことの愛に出会った時、その愛によって変えられるのではないでしょうか。東方の学者たちは、人の救いのために来てくださった幼子の内に、人間が永遠の生命を得るために、自らは死ぬという神の愛の直観によって幼子をひれ伏して拝したのです。彼らの学者としての才覚で変え

