2026年2月22日 説教要旨
今朝の箇所はマタイ24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。 世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話として受けとめたい。自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って、頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われるのです。なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた
2025年2月22日 説教要旨 廣瀬祥史伝道師
私たちは日々の歩みの中、決していつも順風満帆ではなく、さまざまな困難に会い、課題に向き合わなくてはなりません。まるでイスラエルの民がエジプトを脱出して、広く恐ろしい荒れ野の中を通ったように、私たちも、人生の荒れ野の中を歩んでいます。イスラエルの民は、主なる神が与えてくださると言われた約束の地を目の前にして、不平を言い、不安と恐れに駆られました。その土地を偵察して帰ってきた人たちが、その土地の豊かな果実を持ってきて、主が与えてくださる土地は良い土地である、と報告したにも関わらず、イスラエルの民は、その土地に上っていこうとはしなかったのです。彼らは、神が私たちを憎み、アモリ人の手に渡して、私たちを滅ぼそうとしているのだ、とまで言うようになったのです。 私たちも、突然襲いくる病気や、災害、年老いて生活をすることの不安、家族や職場における人間関係の問題、近隣諸国との不安定な関係、経済問題などを目の前にして、いったい、主なる神は、私たちを愛することをやめて、憎んでいらっしゃるのではないだろうか。私たちは、このまま苦しみと嘆きの中にいて滅ぼされてしまうのでは
2026年2月8日 説教要旨
天の国は、この世の終わり(終末)を指し示しています。この世界の終わりに起こることは、主イエス・キリストが花婿のように十字架と復活の後、もう一度この世に来られ(再臨)、栄光の王として君臨し、喜ばしい婚宴の席というイメージで語られます。この世の終わりとは「新しい世」の始まりでもあるのです。花婿(イエス・キリスト)を迎える十人のおとめ(教会)は、天の国の完成を心待ちにして、いつかいつかと待っています。花婿の到着は昼か夜か何時なのか分かりません。夜ならば油壺とともし火が必要になります。花婿を迎えることは簡単ではありません。備えをしながら待つことです。ではその日、その時を知らない私たちが再臨の主イエスを待つためにはどうしたら良いのでしょうか。何とたとえ話の中では6節「真夜中」に花婿が到着します。 目を覚ましているということは、眠らないということではありません。いつでも、どこでも再臨の主イエスとお会いになる備えをしておくということでしょう。キリストを迎えるための油を準備することとは、具体的には、再臨の主イエスが、特に真夜中のような暗闇の中に来られるということ

