2025年6月1日 説教要旨
- aomori1879
- 5 時間前
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山上の説教の最後のところで、主イエスは私たちに何を語っておられるのでしょうか。主イエスはどうやら主の話をちゃんと聞いたのかどうかを確認しようとしておられるようです。そのために、最後に主イエスはたとえ話を話されました。主イエスのたとえ話というのは、福音書の中で非常に大きな位置を占めています。大切なことを話されるときは、いつも、たとえで話をされたと言ってもいいほどです。このたとえで「家」の話をしておられます。「家」というのは、私たちの生活の中心です。私たちの「いのち」の営みすべてが表されるところです。結婚、子育て、教育、仕事、社会の営み、老後の生活のすべてをあらわす象徴的な言葉です。生活全般のことを私たちはよくよく考えているはずなのに、自分の生活の土台はどうであるかということはあまり考えられていないのが現実です。見えるものに目を奪われてしまう。外見の華やかな生活ぶりに目がいって、目に見えない大切なことに目が向かないのです。しかし土台岩のように目には見えない神さまとの深い交わりの中に私たちの真の「いのち」があります(マタイ16:18)。 狭き門であるかもしれません。しかし、主イエスは、人生の一時的な患難や、苦しみのことではなくて、終りの時、神の裁きの時にあなたの人生はそれでも大丈夫なのかと問いかけているのです。だから律法学者たちのように「神はこう言っておられるのです」と語らず「父なる神のみこころを行いなさい」と勧めています。神をわが父と呼び、その父によく聞き、父なる神の御心を、各自に示される神の御心(啓示)を行いなさいと語るのです。御心(恵み)には人を救う力があります。人に自由を与え、喜びを与える力があるのです。いかに幸いな人か(詩編1篇)、必要なものはただひとつとわきまえ(ルカ10:42)、神の御言葉によく聞き、行う賢い人。そのような賢い人になるよう主イエスは今日も私たちを招いておられます。
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