12月17日の主日礼拝メッセージ(要約)を更新しました。
【神はあきらめない】
聖書 イザヤ書40章1−11節、マルコによる福音書1:1−8
抜粋《慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。》
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イザヤ書40~55章は紀元前6世紀後半のバビロン捕囚末期から終焉、エルサレム帰還の始まりの時代を背景に持っている(通称、第二イザヤ)。王国滅亡により祖国を失い、依然として強制移住の苦しみの中にある人々に、第二イザヤは【慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。】(40:1)と、回復の時が近いことを告げた。
今の私たちにとって、回復の時とはキリスト到来の時に他ならない。そのように第二イザヤの言葉を聞きたいものである。何が希望なのか見えにくい現代社会の中で苦しみあえぐ私たちの魂を神は慰め、癒し、救ってくださる。それがキリスト到来の希望なのである。 第二イザヤは【主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。】(40:3)と告げた。主を迎えるために、わたしたちの神を迎えるために、荒れたままの心をしっかりと整地する必要がある、ということである。
その呼びかけは荒れ野に現れた洗礼者ヨハネに託された。彼はキリスト到来に先立って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのである。「悔い改め」とは「向きを直す」ということ。神の方へ正しく向き直すことによって、神の愛と慰めに満ちた御手に触れていただくのである。
その御手の働きによって、【わたしよりも優れた方が、後から来られる】【その方は聖霊で洗礼をお授けになる】とヨハネが告げたイエスをキリスト(救い主)と受け入れる用意があなたの中で整い始めるのである。
(2017年12月17日主日礼拝)