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2025年9月28日 説教要旨

  • aomori1879
  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

学校という「神なんて信じない」と考える人がほとんどの場所で、聖書の言葉を語る難しさを感じる。しかし、神の存在を疑うという問いは現代人特有のものではなく、古代の聖書の民も持っていたもの。神の存在を疑うことは、神を疲れさせる行為であると。人格を持つ存在としての神が、疑われることによって悲しみや疲れを感じるという考え方に基づく。人々が神を困った時だけ助けてくれる便利な存在として捉え、その存在や正しさを疑うことは、そもそも神を神として扱っていないことになる。

 一方で、一切疑いのない信仰もまた問題である。牧師でさえ、神の存在を疑った経験がある方もいらっしゃる。抱える悩みや疑いに寄り添うことの重要性はあるものの、いざ大切な人を亡くし、「それでも神はいるのですか」と問うある信徒に対し、「いるかいないかわからない」と答えたあるケースもあるようだ。しかしながら、その正直な答えが、かえって慰めとなった事例もある。このような信仰の揺らぎに対して、新約聖書・ヘブライ人への手紙ではそもそも「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であると述べている。迫害が厳しく信仰を捨てる者が続出する中で書かれたこの手紙は、アブラハムのように、目に見える安定ではなく、神の言葉という土台に立った「天の都」を望み、不安定な状況でも信仰を貫いた人々の姿が記されている。

 青森教会も、創立以来、多くの困難に直面しながらも、一つ一つの課題に向き合ってきた歩みがあった。これは、目に見える状況が悪くとも、神を真実な方として信頼し、「神の平和」の実現のために努力してきた信仰の姿そのもの。そもそも教会は「天の国」の写しに過ぎず、そこに集う人々は欠けが多い存在。それでも神に赦されていることを信じ、「神ならどう思うか」と自問し続ける姿勢こそが、信仰者として大切である。

 
 
 

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