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2025年11月16日 説教要旨

  • aomori1879
  • 11月18日
  • 読了時間: 2分

18章は罪がテーマになっています。当時誰かが自分に対して罪を犯した時に、「3回までは赦してやりなさい」と教えていたそうです。3という数字は一つの完全な数字です。1回は誰でも赦さなければならない。2回も赦せば、偉い人だ。それを超えて3回も赦せば、もう十分だ、完璧だ。その人はやるだけのことはやったということになります。日本語にも「仏の顔も三度まで」ということわざがあります。それに対して主イエスはびっくりするような答えをされました。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」計算すると490回となります。しかし主イエスがここで言おうとされたことは、我慢の回数の問題ではありません。続けて、仲間を赦さない家来のたとえ話をします。

この話は、イエス様が語られたたとえ話の中では、分かりやすいものの一つではないでしょうか。展開はよくわかる。しかし分かりやすいだけに、かえって「ああ、分かった。なるほどね」で終わってはいけないのです。家来のしていることはいかにも不自然なことです。これだけの借金を赦してもらいながら、彼自身は赦してやることができない。そんなひどいことをしている。主イエスがここでおっしゃろうとしていることは、「その不自然なことを、あなたもしているのではないですか」ということなのです。たとえ話の中で、王様がこの家来を赦してやった時に、王様はこの家来に何の条件もつけていません。「はじめに赦しありき」です。「お前が仲間からの借金を赦してやるなら、私もお前の借金を赦してやるよ」とは、言っていません。王様は、この家来を無条件で無制限に赦してやっているということ。これがひとつの大きな意味です。

神さまはそういうお方である。しかし、現実の「借金」はどうなるのでしょうか?私たちがこの世でつくる「借金」つまりさまざまな「罪」はどう解決されるのでしょうか?現実の社会の中に、歴史の中に、主イエスが遣わされてきた、主がすべての「借金」を背負わされた。ここに言葉で表現できない驚くべき福音があります。この一年間、私たちも自分の歩みを振り返り、そこに注がれた神さまの愛とゆるしを忘れることなく、感謝をし、私たち自身も、心をゆるめられて、人を赦せる人間になりたいと思います。

 
 
 

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