2025年10月26日 説教要旨
- aomori1879
- 10月29日
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「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」という質問を切り出した弟子たちは、天の国にあっても、自分たちの位を気にしていたのでしょうか。主イエスは弟子たちの質問に端を発し、「小さい者たち」の価値に心の目を開かせようとしています。それが5節以降の講話の内容です。「小さい者たち」と三回言及されています(6,10,14節)。先ず「小さい者たち」とは誰なのでしょうか。文字通り、主イエスさまのもとに来る「小さい子どもたち」と考えてもいいのですが、それがすべてではありません。当時の教師は弟子たちのことを「子どもたち」と呼んでいました。
ここでは、自分を信じて従おうとしていた弟子たちのことも意識していたようです。私たちも主イエスに従おうとしているのなら、私たちもまた小さい者たちです。年齢や男性、女性に関わりありません。この世的な職業、能力、出自、民族、人種など一切関わりがありません。神にしか頼るべくものがない者、主イエスに信頼し従う者すべてが「小さな者たち」なのです。
この小さい者たちにつまずきを与えないということ(6,7節)。「つまずき」はもともと「わな」という意味のことばであり、「つまずきを与える」とは、罪を犯させ、滅びに至らしめることでもあります。当時の律法学者やファイサイ派の人々を暗に批判されているのでしょう。この小さい者たちを、私たち人間が軽んじてはいけません。御使いたちと同じような精神で仕えなければならなりません。迷い出た一匹の羊という有名なた例えがあります。主イエスはなぜ、迷い出た者、小さき者にそのような強い関心を示されるのでしょうか。それは、主ご自身、この世において、人々から蔑まれ、辱められ、取るに足らない小さな者、小さな罪人として来られたからだという強調ではないでしょうか。(5節)神からご覧になると、何と小さき者は、「スモール イズ ビュテイフル」なのでしょうか。


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