2025年3月30日 説教要旨
17節は主イエスの時代のラビ(教師)たちの表現です。「あなたは律法を廃棄している」それは「あなたの解釈は律法の意味を弱めている、あるいは、緩めている、破壊している」ということであって、あなたの解釈は正しい解釈ではないという意味だということです。反対に、「わたしは律法を成就している」と言ったとすれば、それは「わたしの律法の解釈は正しい」ということを主張する表現です。律法とは神の教えのことです。御心、ご計画のことですが、その教えを愛する者だけが、神から愛される者となります。そのような神との「愛の関係」にある状態を「義」であると聖書は語ります。山上の説教の中に「義」という言葉が5回も使われています(5:6,10, 20,20, 6:33)。主イエスの弟子たちが律法学者やパリサイ人の義よりもはるかに優れたものでないなら、決して天の御国に入っていくことはできないと言われました。なんと厳しい、かつ恐ろしい言い方でしょうか。律法学者やパリサイ人の義とはどのようなものであり、それに勝るあなたがたの義とはどのような義なのでしょうか。律法学者は神を知ろうとしましたが、まさに正しく知ることができませんでした。そのカギは徹頭徹尾、神から愛されていることを信じることにありそうです。 だれよりも律法を学び、だれよりもそれを完全に守ろうとした律法学者。その律法にまた何倍もの細則を付け加えて、完全な義を得ようとしたパリサイ人。そのいずれにも該当する人物がいました。それは律法学者サウロ、後の使徒パウロです。パウロは律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、つまり神から与えられる「義の賜物」であることを知り、信仰によって義をまとい、、御国に入る(行くのではなく)ことができたのです。(フィリピ3:9 ガラ2:16)その「義の賜物」は「永遠のいのち」そのものなのです。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(1コリント14:1) |
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