2025年1月5日 説教要旨
- aomori1879
- 1月8日
- 読了時間: 2分
人間は「肉にしたがって」生きることも「聖霊にしたがって」生きることもできる存在です。肉に焦点を合わせることは死を意味し,聖霊に焦点を合わせることは生命と平和に導かれることを聖書は語ります。パウロは決して物質的なものを悪であるとか、人間の感情や、肉体が欲求するものそれ自体が悪であると述べているのではありません。肉は、それによって人の生活を導く規準とされることによって、破壊的なものになります。この世は、その成功の規準を成果に求めます。その成果を得るために厳しい仕事を要求し、その成功を収めたものに対価としての報酬を約束します。律法主義の割礼や食事に関する規定の問題は、人間による信仰の敬虔さの評価の基準とされる時、それは差別の基準としても働きます。このような規準で信仰の事柄や労働の意義が評価される時、神の働きや、聖霊の臨在や、新しい生命が入り込む余地がなくなります。物事を人間の目を尺度としたものから行なうというところに行き着きます。手で触れ、舌で味わえ、金銭で価値をはかるとき、そこには神の恵みは働かなくなります。例えば2024年を代表する漢字が「金」でした。金に左右される社会だったのでしょうか。
「肉の業」を複数形で表現するのは、私たちの欲望が無限に尽きないことを表わしています。一方、対立する「霊」はキリストを信じる者に常に寄り添ってくださる「キリストの霊」です。私たちが神の子として正しい歩みをするために、与えられている助け主です。信仰をもって助け主がおられることをいつも意識し信じる。そうするならば、「肉の欲望を満たすことは決してない」と宣言しているのです。2025年も霊の導きに従って共に歩みましょう。
最新記事
すべて表示神の国(天の国)の住民にふさわしい者は、「天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」という教えです。道徳において完全でありなさいという意味ではありません。天の父のご性質とは、すべての人間に対する恵みにおける「公平の完全さ」です。悪い人にも良い人にも、正しい人にも正...
17節は主イエスの時代のラビ(教師)たちの表現です。「あなたは律法を廃棄している」それは「あなたの解釈は律法の意味を弱めている、あるいは、緩めている、破壊している」ということであって、あなたの解釈は正しい解釈ではないという意味だということです。反対に、「わたしは律法を成就し...
「主に従うことは、なんとうれしいこと」(讃美歌507)ガリラヤ湖で主イエスに出会った4人の漁師たちはその出会いのあまりの喜びで、生活をそのままに残し主に従いました。その教えや人々の病や患いをいやされた多くの民衆も主に従いました。皆、わくわく感にあふれ満ちていたのでしょう。こ...
Comments