2024年8月4日 説教要旨
15章には6回にわたって「ユダヤ人の王」または「イスラエルの王」ということばが繰り返されます (2、9、12、18、26、32節)。当時の民衆が待ち望んでいた救い主は、「ユダヤ人の王」としてローマ帝国からの独立を勝ち取る軍事指導者でした。しかし主イエスはご自分が「王」であることと語っていません。主イエスがユダヤ人の最高法院で全員一致の死刑判決を受けた理由は、自分を神と等しくしたという冒涜罪でした。当時のローマ帝国の法律では、イエスが実際に群集を帝国への反抗へと扇動しない限り十字架刑にはできません。ですから、祭司長たちは、イエスが群衆を扇動していたと「きびしく訴え」(15:3) ました。祭司長たちはありもしない罪をでっち上げてでも、イエスを独立運動の指導者として認めさせる必要がありました。その矛盾をピラトは気づいていました。ピラトの再度の質問に主は何もお答えになりませんでした。主の姿はイザヤ53章7節に記された主のしもべの姿でした。「痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない。ほふり場に引かれる羊のように……。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」イエスは、人々が期待する救い主の姿ではなく、イザヤが預言した「主 (ヤハウェ) のしもべ」の姿を生きておられたのです。「非暴力」を貫かれるイエスの十字架への歩みは、王のなかの王としての歩みでした。イエスは圧倒的な勝利者であったからこそ、十字架に向かって歩まれたのです。私たちは、十字架の「暗さ」に、この世の暗やみを圧倒する「光」を見ることができます。あらゆる暴力に立ち向かうには新たな暴力でなく、「愛と赦し」しかないことを徹底して示されました。これが光り輝くのです。ある神学者が語りました。「the cross is the victory that overcomes the world(十字架は、世を打ち負かす勝利である)」主の十字架は現代に「非暴力」の重大な意味を再び想起させるのです。
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