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2024年8月25日 説教要旨

「キリストの福音」というとき、パウロは、この言葉を二つの意味で用いています。第一に、福音はキリストによってもたらされる、という意味です。そして第二に、福音の内容はキリストに関するものであるということです。福音は、その内容であるキリストが神から与えられた救い主、御子であるということからも明らかなように、それは神から出たものです。そして福音は、神の恵みに生きるようわたしたちを招くものとして与えられています。だからこの福音の持つ本質が、福音を語るものに、その権威に服従するよう求めるのです。だから、パウロがここで「あきれ果てた」といって驚きを表明し、「ほかの福音」を語るものに「呪われるがよい」という激しいことばで非難しているのは、自分が宣べ伝えた福音が拒否されたことを、パウロは自分が退けられたからという意味での怒りを表しているのではありません。そうではなくて、それによって退けられたのは、神ご自身であり、キリストを通して恵みを与えようとされた神を拒むことになるからです。

福音というのは、人を神の恵みに近づけ、神の恵みの中で生きる人に造り変える働きをする、そのような意味で、生ける言葉です。人を命へ導き、真の命の状態に保たせる言葉です。教会はこの福音に生きるとき、福音そのものの力で成長させられ、生き生きとした喜びで満たされるのです。福音というのは、神に近づく、神の恵みを知り、その恵みのうちに生きるただ一つの道であります。神の愛、神の懐で憩う喜びの道、その自由を味わい知る道は、キリストを通してしか知ることができません。キリストの十字架において自己に死に、神の恵みに生きる自由を知る人しか味合うことのできない喜びであります。キリストの福音に触れるということは、そういう喜びに与ることです。だからこのただ一つの福音、キリストの福音に何かを加える必要もありませんし、加えれば、その恵みから離れることになってしまうのです。福音がただひとつだということは本当にわたしたちを安心させるものです。なぜならこの福音だけを信じていればよいからです。この福音を信じる者だけがこの神の恵みにあずかり喜びに満たされます。

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