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2024年8月18日 説教要旨

主イエスの墓に向かう婦人たちは、途中で「話し合っていた」とあります。彼女たちは何を話し合っていたのでしょうか。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。普通ならまず行く前に話し合う内容です。「どうする、行っても無駄だ。墓の入り口には大きな石があるし、自分たちの力ではどうやっても動かせない。しかもそこには番兵たちがいる。どう考えても無理だ!香料なんて買ったってただのお金の無駄遣いだ」と。普通であればこのように考えるところです。でも婦人たちは、にかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい、きるだけ早く墓に納められた主イエスを見たいという「愛」に突き動かされていたのではないでしょうか。大きな石も彼女たちにとってはたいした問題ではなかったのです。注目すべきことは「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」どうやってあの石を転がすことができるかという詮議ではないのです。だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうかです。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていました。私たちも同じ事が言えます。イエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」と問わないで「だれが」と問うなら、主がその問題をすでに解決してくださることがないでしょうか。石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でも主イエスが解決してくださるということを日常の生活の中で体験できればすばらしいことです。

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