2024年7月7日 説教要旨
12人の弟子は誰もが、主イエスと出会うまでの生活をすべて捨て、イエスに従いました。たとえ、洗礼を受けクリスチャンになったとしても、それほどの徹底した生活の変化を経験する人はそれほどいません。
人生のすべてをイエスに献げたユダでさえイエスを裏切るのです。他の弟子たちも同様です。ペテロは決してつまづかないと宣言した。しかしどうだったでしょうか。皆、躓きます。弟子たちの姿を見ると、主イエスの食卓に招かれるに相応しいと自信をもって言える人はいるのだろうかと思わされます。ユダでさえ主イエスは食卓に招かれるのですから。
主の晩餐は、わたしたちの罪に対する神の赦しの愛と、わたしたちをなお導こうとされる神の意志の表れなのです。共に食すること、それは命を分かち合うことです。この主の晩餐、聖餐に与るとは、神のこの愛にすべてを委ねることです。この食事は、教会が守り続けて来た聖餐の食卓の起源となっている食事です。わたしたちは聖餐に与る時、復活の主イエスと共に囲む食卓を思い起こすと共に、この十字架の前の食卓をも思い起こさなくてはなりません。主イエスが、わたしたちにパンと杯を差し出している。そこで、わたしたちは、まさに、自分たちが主イエスを裏切る一人である、弱い欠けの多い人間である、ことを自覚せざるを得ないのです。ここで、弟子全体が持っている罪がはっきりと示され、「生まれてこない方が良かった」とまで言われ、見捨てられた者であることを示されるのです。しかし、そこで与るパンと杯が、そのような見捨てられた者の救いの出来事を記念しているのです。主の食卓が示していることは、主に選ばれた主に従う者も、主を裏切らざるを得ない見捨てられた者であり、また、そのような弱い者にも、主イエスは、「生まれなかった方が、その者のために良かった」とまでおっしゃった不幸な者のために命を差し出して下さっているのです。そのことを知らされる時、主が、私たちのために死なざるを得なかったことの意味と、そこで成し遂げられている救いの恵の奥深さを味わうのではないでしょうか。「主よ、われらを憐れみたまえ」
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