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2024年7月21日 説教要旨

弟子のペトロはすべてを捨てて主イエスに従った人でした。ヨハネ福音書によれば、主イエスの教えを理解できず、多くの人々が主イエスを見捨てて去って行った後も、彼は残ったのです。時に主イエスから手厳しくお叱りを受ける時もありました。しかしなお、主イエスに従ってきたのです。主イエスが逮捕される時も、いったんは剣をふるって抵抗しようとしました。彼は十分に誠実で、それなりに勇気もある人間でした。しかし、人間的にいかに誠実でり、いか勇気があろうとも、人間は容易に「神なんて知らない、無関係だ」と言えるのです。それが私たち人間のかかえる罪の根源ではないでしょうか。その罪の本質は単に神を知らないということ以上に「神はなくても自分は自分の力で生きていける」という考えがあるのです。ペトロは漁師だったとき、自分の意思で舟を捨てて主イエスに従ったと考えていました。宣教活動で様々な試練があっても、自分の熱心さや忍耐で乗り切ってきたと思っていました。そのペテロが最後の土壇場で主を見捨て逃げてしますのです。罪の姿があらわにされたのです。身をよじらせて泣くほどに自分の醜さに大泣きしたのです。しかし、主イエスの眼差しと共に気が付いてくるのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」「この人は、あの人たちの仲間です」これらの言葉を否定として答えたその時の涙を越えていくのです。復活のキリストに再び出会い、自らを引き受けていくことによって、訛りを含めたガリラヤの者として、自分の丸ごとを受け入れていくことへの招きの中で、喜びに向かう感謝の涙に変えられていくのです。主イエスにもどってきます。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担い…あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(1ペテロ2:24~25)義によって生きるようになるため。

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