2024年7月14日 説教要旨
- aomori1879
- 2024年7月14日
- 読了時間: 2分
有名なゲッセマネの祈りをとおしていろいろな事柄を黙想してみましょう。今日の個所で非常に興味深い記述がひとつあります。「ここに座っていなさい」、「ここを離れず」と繰り返されるように、「ここ」が強調されているのです。「ここ」とは、主イエスが祈るために、「少し進んで行かれた」場所からほど近い所である。主イエスは祈りながら「ひどく恐れてもだえ始め」られたという。もちろん主の苦しみのうめき声は、少し離れた所にいる弟子たちの耳に届いたことであろう。しかし弟子たちは、どうがんばっても主イエスとまったく同じ苦難の場に立って、主と同じように、うめきながら祈ることが出来ないのである。主イエスと全く一つになって、十字架の苦しみを、同じく苦しむことはできない。何とか主イエスのうめき声が聞こえる所にいるだけです。そのような「ここ」に座る、「ここ」を離れずにいる、「ここ」とは教会でもあります。
「目を覚ましていなさい」「祈っていなさい」と主イエスは弟子たちに言われる。ここに教会の役割が、象徴的に語られています。私たちは主イエスのみ声が聞こえるように、目を覚まし、祈ることが、第一の務めなのではないでしょうか。「心は熱してるが、肉体は弱い」弟子たち。これは私たち教会の姿でもあります。それでも、何度も眠り込んでいる弟子たちのもとを訪れて、声を掛ける主イエスがおられる。弱い弟子たちの教会に主が共におられる。その主が、十字架の苦しみを前に、「御心が行われますように」と私たちと一つになって祈ってくださっている。私たちはどう祈ればいいのか分からないが、ただ「御心に適いますように」と祈るだけでもいいのではないでしょうか。
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