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2024年5月26日 説教要旨

今日の箇所でまず指摘したいのが、マルコ福音書は盲人「バルティマイ」っていう名前を書き記していることです。マタイやルカには「盲人」とだけ書いています。マルコだけ「バルティマイ」って名前を記しています。「ティマイの子」です。これは「けがれの子」「罪の子」っていう意味です。わたしたち人間には深いところにだれでも罪の汚れがあるからです。自己中心的になってしまったり、悪い思いをもったり、勘違いしたり、神様から離れたりします。聖書はそれらを「汚れ」「罪」と呼びますが、人は皆、本質的に罪人なのです。罪人を救うことができるのは、罪なき主イエス・キリストだけです。

このバルティマイが「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫び続けます。神様に向かって叫ぶというのは、礼拝したい、教会に行きたい人の叫びです。真の主に出会いたいという霊的な渇きからくる叫びです。この信仰が盲人バルティマイを救い、彼はすぐ見えるようになりました。「われ開眼せり」はじめは道端に座っていた人物でした。「路傍の石」(山本有三)でした。しかし、信仰を得て主イエスの「道」に従うように変えられました。もはや「けがれの子」ではなく「光の子」「神の子」です。それは、主イエスの道の中にいること、御座におられる主を仰ぎ見ながら、共に歩むことです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とある通りです。

「路傍の石」の主人公である吾一は先生から諭されます。「『吾一』というのはね、我はひとりなり、我はこの世にひとりしかいないという意味だ。たった一度しかない人生をほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」

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