2024年5月12日 説教要旨
お金持ちの男は、『善い』先生と考えたイエスから、自分に積み上げた『善い』ことによって神の国にふさわしい者であるということを承認してもらえるにちがいないと期待していました。しかし、隣人を自分のように愛すること、すなわち神の御心について思いを至らせることには欠けていました。主イエスはこのような人にも慈しみをもって対応されました。この主イエスの慈しみを私たちも心に留めながら、天に宝を積むということが、私にとって何なのか、どうすることなのかを考えてみます。
この金持ちの男にとても似た人物がいます。パウロです。この世的な豊かさを「肉の頼み」と語っていました。家、兄弟、家族、畑などもすべて財産です。パウロは自分にとって有利なこれらすべての財産をキリストのゆえに損失と見なすようになりました。すべての財産を塵あくたのようだとも表現しています。とても激しい言い方です。私たちはどうでしょうか。同じようにしなければ神の国に入れないのでしょうか。主が言われるのは「肉の頼み」(この世的なすべての頼り、財産)をもってしては神の国に入るのは難しい」とおっしゃっているのです。逆に肉の頼みをもっていない人も何も心配することはないと言う意味でしょう。
ただおひとり、本当にすべてを捨てた方がおられます。イエス・キリストです。私たちをお救いになるために、神の子の栄光をお捨てになり、そして、十字架上で命をもお捨てになりました。私たちを救うためです。わたしたちに永遠の命を賜るためです。このお方にすべてをおゆだねすればよいのです。神の子になればいいのです。どんな人でも間違いなく救われます。それが福音です。
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