2024年4月28日 説教要旨
- aomori1879
- 2024年4月30日
- 読了時間: 2分
「つまずく」とは信仰の挫折、信仰を失ってしまうことを意味しています。主イエスを信じている一人の信仰者をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことは、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」というほどの大きな、恐ろしい罪なのだと警告です。この警告は弟子たちに向けて語られています。つまり、イエス・キリストを信じる信仰者の間で、人の信仰をつまずかせることが起る、「相手を裁くこと」を主イエスは警告しておられるのです。私たちも教会における交わりの中で、人を傷つけ、悲しませるようなことが起こる。それは信仰を前提としない世間一般の交わりにおけるよりもはるかに深く人の心を傷つけ、その人をつまずかせ、信仰を失わせてしまいます。「つまずき」の原因は自分中心の主張にあります。自我の正しさの主張です。自分の正しさで相手を裁きます。つまずきを与えてしまいます。「キリスト者がキリスト者であること」、それが「塩味」であるということです。 キリスト者がキリスト者でなくなったら、何も意味が無いということなのです。「キリスト者がキリスト者であること」は、「御言葉に聴き、信仰に生きること」「祈り、礼拝する者として生きること」です。キリスト中心に生きること、それが塩味を持つことです。キリスト者としてこの世に証しを立て、神の国の民とされること、そこにこそ「平安」があるのです。「互いに平和に過ごしなさい」とは、キリスト者として「共に御言葉に聴き、共に祈り、共に礼拝する者」であると時に天から与えられる恵みです。
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