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2024年4月14日 説教要旨

19節「なんと信仰ない時代なのか」この主イエスのお言葉をどう受け止めればいいのでしょうか。この言葉は、誰に向けられたものでしょうか。そこにいた律法学者、弟子たち、群衆、すべての者に向けられています。祈りによらなければどうすることもできない事態を前にして、祈るよりも自らを正当化するための議論をしている弟子たちなど皆に対して言われています。では、主イエスのお言葉を悪霊に憑かれた息子の父親はどう聞いたでしょうか。おそらく父親は、主イエスと同じ立場に立って思ったかも知れません。「まったくその通りなのです。不信仰なお弟子さんたちには何もできませんでした。」そして、イエス様に言いました。「あなたのお弟子さんたちは、不信仰で何もできませんでした。ただ、もし、あなたにおできになるものなら。」イエス様は父親に問い返し「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできる」「あなたは弟子たちの不信仰を責めてる。そしてわたしに、『もし、おできになるものなら』と言う。しかし、そのあなたの信仰はどうなのか」と心を探られます。私たちも、あたかもイエス様と同じ立場に立っているかのような思いで、他人のことを嘆きます。しかし、主イエスはそういうところに立っている人に、「それでは、あなた自身は、神の前にどうなのか」と問われます。これはいつの時代でも私たち一人ひとりに対する問いかけです。「それでは、あなた自身はどうなのですか」父親は気づきました。「不信仰なのは弟子たちではない。イエス様の前に私こそが不信仰なのだ、イエス様が自分の信仰のなさを助けて下さらなければ、自分は信じていることはできない、ここにキリストに対する真実な信仰の告白があるのではないでしょうか。私たちの信仰の大小が、神さまを恵み深いお方にするのではありません。からし種一粒ほどの小さな信仰でも、それは神さまの恵みによって与えられたものです。不信仰な者の中にある信仰を主イエスは見て下さいます。


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