2024年3月31日 説教要旨
注目すべきことは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、婦人たちがここで「だれが」と言っていることです。あの大きい、とても重くて動かすことができそうもないあの石を、「だれが」転がしてくれるかという、この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも弟子たちや私たちはそう考えません。普通はこう考えます。「どうやって」?どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも婦人たちは違います。だれが転がしてくれると思ったのです。皆さん、だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。そうです、主イエス・キリストです。イエス・キリストが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、すでに彼女たちの信仰が表れていたのではないでしょうか。
私たちは皆、心に蓋石を持っています。心があけられない、開けない。みなこの石のせいだと思ってしまいます。不思議なもので、心はあけようとしても、なかなか開けない。そこが神さまの聖域だからでしょうか。しかし神さまが触れるとき、重い蓋石を神が除けてくださる。「だれか」ではなく、「石の心」(エゼキエル書36:26)は神が取り除いてくださるのです。様々な心配事、問題、トラブル、悩みなどがあろうとも、イースターの朝を思い出し、「石の心」を除けて「肉の心」をくださる主イエス・キリストを見上げましょう。
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