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2023年7月9日 説教要旨

  • aomori1879
  • 2023年7月12日
  • 読了時間: 2分

「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(1:24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このヤコブの手紙を「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。クリスチャンに福音派か社会派かという二者択一はありません。「自分は信仰を持っている言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(1:14)。重要なのは、「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2:8)。信仰・救いは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物であることには変わりありません。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはどういうことなのでしょうか。私たちの救いは神の一方的な恵みによるのですが、私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。私たちは時々、“自分の信仰はこれで良いのか”と吟味する必要があります。善い行いの量によって報われ、救われるのではありませんが、神の恵みにより無償で愛され、生かされている、その喜び、その感謝が、私たちの人生の土台となり、生き方となり、行動となり、態度となって現れているか。そのことをチェックする必要が、私たちの信仰生活にはあるでしょう。いや、そのことが自分の中で自ずと問われる機会やきっかけを、神さまが与えてくださるでしょう。

 
 
 

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