2022年9月11日 説教要旨
- aomori1879
- 2022年9月11日
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使徒信条は「クレドー」という言葉で始まります。「わたしは信じる」という意味です。この言葉は、信仰の主体、信じる主体が私たち人間であることを言い表しています。使徒信条はもともと洗礼式に由来すると考えられています。既に紀元2世紀頃にその原型となったものが見られます。つまり、信仰告白というのは、洗礼を受ける人に対して、試問をするために用いられていたのです。その当時、洗礼は全身を水に沈める形で行われておりました。まず洗礼を受ける人が水の中に入ると、洗礼を授ける者がその上に手を置いて、あなたは「全能の神である父を信じますか」と尋ねます。洗礼を受ける人が「信じます」と応えますと、洗礼を授ける者は洗礼者の頭に手を置いたまま、その人を水に沈めます。これを三回おこないます。私たちは信仰告白というと、どうしても何か自分の信念や確信を述べることと勘違いしてしまいがちですが、洗礼式からも分かりますように、そこでは教会が受け継いできた信仰を受け入れるかどうかが問われているのです。父・子・聖霊なる三位一体の神に対する信仰が問われているのです。「わたしは信じる」という場合、個人的に信じているというのではなくて、「教会が大切に受け継いできた信仰を、わたしも受け入れます」と告白しているのです。そうして初めてその人は洗礼を授けられ、イエス・キリストのからだである教会の肢として繋がれるのです。人はこのようにイエス・キリストに対する信仰を公に言い表すことによってのみ救いに与かることができるのです。
さらに使徒信条は教会が外部から攻撃され、危機にさらされる時、教会を守る盾としての役割を果たしてきました。国家が良心の自由や信教の自由を脅かし、教会に対して神ならぬものを神として拝むことを強要する場合、「わたしは信じる」という信仰の告白は自ずと、そのような国家の弾圧に対する抵抗運動になるのです。戦前のドイツの例にみられますが、日本の場合はどうでしたでしょうか。
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