2022年12月4日 説教要旨
- aomori1879
- 2022年12月4日
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主イエスは十字架上で「成し遂げられた」と言って、息を引き取られました(ヨハネ19:30)。神の刑罰はすべて終わったのです。葬られて肉体は塵に返りますが、同時に、神の憐れみが明らかにされます。父なる神は、御子イエス・キリストのお体を放置することをよしとされず、葬りのわざにおいて御自身の憐れみをあらわされました。アリマタヤ出身のヨセフがお体の引き取りを願い出ると、ピラトはただちに主イエスのお体を十字架
から降ろし、弟子のヨセフに引き渡しました。十字架のもとにとどまっていたのは女性たちだけでしたが、主イエスのお体をていねいに拭き、きれいな亜麻布に包んで葬りました。主イエスのお体はていねいに丁重に葬られました。当時の習慣からすると考えられない葬りでした。
私たちの場合にも、葬りには大きく二つの意味があります。一つには、肉体はやがて塵に返ります。朽ちて塵に返らなければならない。その厳粛な事実に目を向けて、与えられている命の尊さを認め、命の主である生けるまことの神をほめたたえます。もう一つ、私たちにおいても葬りは憐れみのあらわれるところです。主イエス・キリストが死んで葬られ、罪の呪いをすべて引き受けてくださいました。それゆえ、主イエス・キリストに結ばれている者は、キリストと共に死に、キリストと共に葬られたのであって、私たちは神に対して生きる者とされています。私たちは主イエス・キリストにある新しい命、永遠の命の希望に生きるのです。これがキリスト教の葬儀の意味です。それゆえ、葬りは神の憐れみのわざにほかなりません。私たちが愛する者を葬るときには、互いに憐れみをあらわして丁重に葬り、その方の命を命の主であるお方の憐れみ深い御手にゆだねます。死と葬りに備えることが大切に勧められる時代です。私たちのために十字架につけられ、死んで葬られたお方がおられる、そのことを知ることこそ、私たち自身の死と葬りのための何よりの備えにほかなりません。
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