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2022年11月27日 説教要旨

  • aomori1879
  • 2022年11月27日
  • 読了時間: 2分

使徒パウロは、十字架は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(23節)だと指摘しました。私たち人間の普通の感覚、一般的な常識に基づくならば、十字架は愚かなことであり、またつまずきの原因にほかならない、ということです。

 今でこそ十字架は、教会の建物の上に掲げられ、ペンダントのような飾り物としても用いられます。しかし、十字架が極刑の道具であることを思い起こすなら、ランドマークとして掲げたり、飾り物として用いることは、主イエスの時代の人々にとっては理解に苦しむことでしょう。また、十字架につけられて犯罪人として処刑され、死んだ者を救い主や神の子であると信じるとは、愚かなことに違いありません。旧約聖書に「木にかけられる者は神に呪われた者」(申命記21:23)とあり、十字架という木にかけられて処刑された者が救い主であるはずがないと言って、ユダヤ人はつまずきました。こうして、いつの時代も、十字架は愚かであり、つまずきなのです。当初、十字架は「弱さ、愚かさ、つまずき、(律法の)呪い」しか意味しませんでした。しかし、十字架の神秘に触れた者には、パウロのように、真の「強さ、賢さ、救い、祝福」と逆説的に経験したのです。

「わたしたち救われる者には神の力です」(18節)、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵である」(24節)であるのです。さらに苦難のなかで苦しむ「民衆、無辜の人々」と共に苦しんでくださる主イエスの姿に触れたのです。

「十字架につけられたまいし」は現在分詞として表現されているように、キリストは、今も私たちのために共にこの世の言い知れぬ様々な苦難や惨さを共に担われておられるのです。ここに十字架の神秘、言葉で言い尽くせぬ神の恵み、神の愛があります。

 
 
 

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