12月10日の主日礼拝メッセージ(要約)を更新しました。
【神はあきらめない】
聖書 エレミヤ書36章1−10節
抜粋《この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。》
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エレミヤは紀元前627年に預言者としての召命を受けた。【わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。】(エレミヤ36:5)と書記官バルクに伝えていた。彼はイスラエルに厳しい悔い改めを告げて人々の反感を買い、神殿への出入りが禁止されていたようである。
【ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年】(同36:1)とは、紀元前605年と思われる。地中海世界の覇者がエジプトから新バビロニアに変わった年でもある。それは、イスラエルの民に亡国の憂き目に遭う時が迫っていることを物語っている。
そんな時、預言者エレミヤは書記官バルクに大勢の人が神殿に集まる「断食の日」に口述筆記した巻物から神の言葉を神殿で語り、民に聞かせるよう託した。翌年9月「主の前で断食をする布告」が出された時にもバルクはエレミヤに託された神の言葉を民に読み聞かせた。しかし、ヨヤキム王は密かに巻物を奪い、暖炉で燃やしてしまった(36:22以下)。
【ユダの家は…それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば…】(36:3)、【人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない】(36:7)。憐れみと配慮に満ちた神の言葉を受け入れられない人間に対して、神はそれでも「かもしれない」という愛で人間と向き合ってくださる。どんな裏切りがあっても、ご自分が創造された「人間」をあきらめない、それが私たちの神である。
(2017年12月10日主日礼拝)