2025年2月9日 メッセージ要約(日野秀彦)
- aomori1879
- 2月9日
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日野は中学生で洗礼を受けるが、その後教会を離れ自分勝手に歩んでいく。そんな時に大きな試練を与えられ、最後には神を冒涜する言葉を吐き出す。その時に聖霊の働きにより信仰に立ち返り礼拝に出て、聖書を読むようになる。
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)
そこでイエスキリストが自分の罪の為に十字架にお掛かりになって下さった事が魂で感じられ、自分が愛されている事、どんなに神に逆らい背を向けていた時でも一方的に愛してくださることを心から知ることになりました。
人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている( ヘブ9:27)
人はどうやっても自分の罪を自分ではどうしようもできない存在。神であるのに人の姿となりこの世に来て下さったイエス様が、人の罪許すために十字架にお掛かりになって復活して下さった。このイエス様を信ずるものは滅びることなく永遠の命を得るのです。
自分がどんなに悪事をしていたとしても、世間一般で悪い道に進んでいるように見える事をしていても神は万事を益に変える事がおできになります。修行をしたとか努力したから救われるのでは無い。ただ一方的に愛してくださるその愛を受け入れこの十字架が自分のためであると信じる時に救われ魂の渇きが癒されます。今、心を開いてイエス様の愛を受け入れましょう。
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