2024年2月4日 説教要旨
神から特別な使命を与えられて遣わされた洗礼者ヨハネを捕らえるという人間の暴挙によって、人間の罪にさらに罪が増し加えられた、器になみなみと罪が満ちていたところに、最後の一滴が落ち、あふれてしまう、罪がもうどうしようもなくこの世界にあふれてしまった。その時に、まさに「時は満ち」たのです。神の国は近づいたのです。主イエスが宣教を開始されたのです。洗礼者ヨハネの無残な最期を含めて、彼の生涯の歩みのすべてに神の愛が注がれていたことを彼自身も後に知ることになります。罪もないのに斬首されることに神さまの愛がどうして感じられるかと多くの人々は考えます。歴史的に見てもキリスト教の伝道者の多くが殉教し、悲惨な最期を遂げました。しかしなお彼らは神さまの愛と自分自身の救いを確信できました。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる、もはや死はなく、もはや悲しきはも嘆きも労苦もない」(黙21:4)神は自ら人と共にいて、その神となってくださったからです。
洗礼者ヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。彼はそれに満足し、ただ神の御言葉だけを伝えたのです。神さまからの愛を込めた懇ろな語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神さまの独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへと招いてくださったのです。今朝も主の聖餐にあずかりましょう。私たちも自分に示された主の道を歩み続けましょう。
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