2022年7月24日 説教要旨
- aomori1879
- 2022年7月27日
- 読了時間: 2分
ユダヤの社会においては、族長たちがまことのぶどうの木と考えられた時代がありました。モーセがその木だと考えられたこともありました。しかしヨハネ福音書は、イエス・キリストがまことのぶどうの木であると宣言するのです。このまことのぶどうの木であるキリストに結ばれるとき、人は誰でも十字架によって罪が清められ、豊かな実をたわわに結ぶものとされていきます。このまことのぶどうの木であるイエス・キリスト以外に、それは族長たちであれ、モーセであれ、主イエス・キリスト以外のいかなるものに繋がろうとも、本当に豊かな実を結ぶことはできません。ぶどうの枝が実を実らせるのは、その枝に力があるからではなく、枝がしっかりとぶどうの木に結ばれる時、はじめて、ぶどうの木は豊かな実りを結ぶことが出来ます。実の実らないぶどうの枝は取り除かれると記されていますが、実が実らない枝というのは、まことのぶどうの木につながっておらず、まことのぶどうの木からいのちの養いを受けていないからです。木と枝はひとつ、一体とならねばなりません。実際、ぶどうの木を見ると、どこから幹でどこから枝かよくわかりません。私たちがすることは「人がわたしにとどまり」とあるように、イエスを救い主として信じる、それだけです。そういう人には、「わたしがその人の中にとどまっている」、つまり、イエスの霊、神の霊である聖霊様がイエスを信じる者の中に住んでくださり一体となってくださるのです。すばらしい恵みです。
そして、私たちが聖霊の働きにゆだね、苦難があってもそれを天の父の刈り込みとして受け取っていくとき、豊かな実が結ばれます。聖書は、そのような実を、「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22〜23)と表現しています。これは人の力や努力でできる実ではありません。あなたの人生をご自分の手から放して、主イエスを信じ、聖霊様にゆだねてはいかがでしょうか。
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