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2022年7月31日 説教要旨

  • aomori1879
  • 2022年7月31日
  • 読了時間: 2分

「心騒ぐ」(14:1)弟子たちに、主イエスは、わたしも父アッバのふところに戻るが、あなたたちも父なる神のアッバのふところに行く(1:18)という慰めを与えられました。死あるいは死後についての不安は皆もっていますが、良く生きることで、父のふところに迎えられるのです。

生きるということは「道」という単語で表されています(4-6節)。その生き方がより良い生き方であり倫理的なものであることは「真理」という言葉で表されます。さらに、この世とあの世(神の国)が関係していることは「命」という言葉で象徴されます。弟子トマスは「イエスの道を知らない、どうすれば知ることができるのか」(5節)と質問をしますが、とても正直で本質的な問いです。主イエスは、自分自身が道、真理、いのちであるという謎めいた答えをします。このことは二つの意味合いを含んでいます。一つには、イエスが模範であるということです。愛するという生き方の模範をイエスに定めるということです。トマスが弟子としてイエスの後ろを歩いている限り、イエスの生き方を真似できるのですから、イエスの道を歩くことができます。それは仕えるという生き方です。ここに神の国(あの世)の倫理があります。この地上の常識とは異なる真理の教えです。そして互いに足を洗い合い、主人が奴隷になるような愛を示す人は、永遠の命を生きています。輝いて生きているからです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)。この意味で、イエスは道、真理、いのちなのです。

そして二つ目に主の無条件の赦しを示します。道とは人に踏みつけられる存在ですが、主イエスが道であるということは、弟子たちや全ての人にこの後に踏みつけられ十字架で殺されることによって明らかになります。それは全ての人が倒錯した生き方をしていることを意味しているのではないでしょうか。。人は誰でも一人では生きていけません。どんなに良い人でも誰かを踏みつけにしています。その意味ですべての人は罪びとなのです。キリストの十字架はその真理を端的に示しています。この十字架を信じ受け入れ、赦されることで、人は新しい「いのち」へと導かれます。

 
 
 

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