2022年4月3日 説教要旨
- aomori1879
- 2022年4月3日
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ゲッセマネの祈りは祈りの本質をおしえてくれます。「父よこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いおりではなく、御心のままに」「この杯」というのは、これから起ろうとしている主イエスの受難、十字架の死のことです。できることならそれをわたしから過ぎ去らせてくださいと祈っています。つまり、十字架につけられ、殺されなくてもすむようにしてほしい、という主イエスの切なる願いなのです。「しかし」とこの祈りは続きます。「わたしの意志するようにではなく、あなたが意志するように」となります。わたしの意志、願いは、この杯を過ぎ去らせて下さること、十字架の死を免れることですが、その私の意志ではなく、あなたのご意志を行ってください、そしてわたしがそれに従うことができるようにしてください、と主イエスは祈られたのです。ゲッセマネの祈りは、激烈な信仰の戦いの場です。私たちの祈りは、神さまに自分の思いや願いを投げかけているだけということが多いのではないでしょうか。しかし、そういうことだけの祈りは、ともすれば独り言に終わってしまいます。要するにそこには戦いが起らないのです。祈りが本当に神さまとの対話となるためには、祈りの後半の部分、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」が必要なのです。神さまの御心、ご意志はどこにあるのかを求め、それに従っていこうとすること、それが信仰です。それに従っていこうとする時に、自分の思い、願いとのぶつかり合いが起るのです。そこに戦いが生じます。私たちはしばしば、自分の思いや願いをそのまま神さまの思いにしていないでしょうか。そうなると、祈りは戦いではなくなります。緊張感もなくなります。しかし、神様の御心、御意志を本当に祈り求め、その葛藤、戦いにおいてこそ、信仰は本物となっていくと言えるでしょう。ゲツセマネの祈りは、主イエスにとって死と悲しみ、恐怖であり、御心に従っていくための戦いを、最後まで戦い抜かれ、弱き私たちと共に歩もうとされた決意の表明なのです。
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