狭い戸口からはいりなさい
- aomori1879
- 2019年10月6日
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マタイ福音書の山上の説教では「狭い門から入りなさい」となっています。こちらの聖句が有名です。「戸口」となっている単語も、「扉」とか「門」という意味もありますので、同じことです。すなわち、神の国への入口である扉のことを指して言っておられるのです。しかし、ここで「努めなさい」という言葉は、競技する、一心に努力する、奮闘するという意味ではないのです。
主イエスが続けて「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」とおっしゃっていることと合わせて読むと、何か大学受験の「狭き門」という言葉を思い浮かべるかも知れません。多くの受験生が難関の大学合格を目指して、一心に努力勉強し、競争しなければ…しかしここはそういう意味ではありません。「入ろうとしても入れない」というのは、倍率が高くて競争に負けては入れない、というのではないのです。後になって「入ろうとして求めることになるが、入れない」という未来のこととしておっしゃっておられるのです。すなわち、今、入ろうとするのではない。やがて、その時になって入ろうとする。しかし時すでに遅し、入ることができない。そういう人がいかに多いか、そういうことをおっしゃっているのです。
主の時が来れば、その家の主人によって戸が閉められてしまうからです。家の戸がいつまでも開いているのではない。神の国の扉は、いつまでも開いているのではない、閉められる時が必ず来るというのです。閉められてしまうと、入ろうとしても入ることができなくなるのです。「狭い戸口」というのは、まさにイエス・キリストその方のことであると思います。 主イエスが、まさに神の国の戸口、門、扉となりました。十字架で命を捨てられた主イエスが、よみがえらされ、天に上って行き神の右の座に着かれたことで、神の国への道が開かれたのです。そして、そのイエス・キリストという「狭い戸口」から入りなさいと、招いておられるのです。
今日もまた教会の礼拝に集う人々は、世の中から見たら多くありません。やはりそういう点でも狭い戸口です。しかし主イエスは、その「狭い戸口から入りなさい」と言われているのです。神の国の扉が閉められてしまう前に。
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